「日本のデザイン――美意識がつくる未来」を読む

1月 2nd, 2012 by Taguchi Leave a reply »

今年の年末は、10月の終わりに日本に滞在したこともあり、米国でお正月を過ごすことになりました。この時間がある時に、原研哉著の「日本のデザイン」という本を読みました。日本人の美意識、家、観光、素材などのトピックに分かれて、読みやすい本でした。いくつか個人的に、気に入った文章があったので、ここで記しておきます。

「住空間をきれいにするには、できるだけ空間から物をなくすことが肝要ではないだろうか。ものを所有することが豊かであると、僕らはいつの間にか考えるようになった。」p.99
このことは、著者はPeter Menzelの写真集を見てみると分かると述べている。こちらに暮らしていると、米国のアジア人系、もちろん日本人も含む家や部屋に行ってみると分かると私は思う。私自身やハウスシェアーをしているタイの友人も含め、なかなかものが捨てられないのである。
「持つよりもなくすこと。そこに住まいのかたちを作り直していくヒントがある。」p.106

「アジアの文化を見つめ直そうというメッセージ」p.236

著者によると、中国の講演でこの言葉は、とても手ごたえがある言葉だそうです。私も、日本のこと、アジアのこと、米国のことについて、もう一度見直す必要があると思いました。

「日本は世界に先駆けて人口縮退社会に突入する。この現実をいかに冷静に捉えることができるかがこの国の未来を左右する。」p.219
この表現は、経済的な面においてネガティブに捕われやすいが、文化的、人間的に豊かにという考えが私達若者はできるのだろうか?ということを個人的に考えるきっかけになりそうです。

「僕は、グラフィックデザインにスキルを持つデザイナーであるが、久しくコミュニケーションの現場に携わって、「もの」ではなく「こと」の創造に関わってきた。」p.182
私自身の仕事もランドスケープというものをつくるほうにあたるだろう。しかし、「こと」「ひと」といったものを生み出していく仕事も面白いのかもしれないと思い、将来の参考にしたいと思いました。

「無味乾燥な人工物によって固められた海辺と同様、暮らしも都市も汚れた。・・・経済を加速させていくために容認されてきた公共空間における奔放な商業建築や看板の乱立は、景観を悲しむ感覚を麻痺させ、日本人の感性の上にかさぶたのような無神経さと鈍感さを貼り付けてしまった。現代の日本人は「小さな美には敏感だが、巨大な醜さに鈍い」と言われるが、その背景がここにある。
茶の湯や生け花といった伝統文化、あるいは個々のデザインや建築に関してはきわめて高度な創造性や洗練を見せる日本であるが、その集積であるはずの景観が醜い。」

ランドスケープアーキテクトとして、この言葉は耳が痛いです。日本にも多くのランドスケープに関わる方が、都市、地域レベルで働くプロジェクトが増えれば、将来は良くなると思います。これは、都市、田舎でも同じことです。公共で働く公務員の方の理解も必要になるでしょう。

「空間にぽつりと余白と緊張を生み出す「生け花」も、自然と人為の境界に人の感情を呼び入れる「庭」も同様である。これらに共通する感覚の緊張は、「空白」がイメージを誘い出し、人の意識をそこに引き入れようとする力学に由来する。」p.70
庭にも、エンプティネス、空白部が大事だということである。あまりデコレーションをやり過ぎないのが、日本の庭園美かもしれません。

この本は、全体的に非常に読みやい一冊でしたので、時間があれば読んでみるのも良いかもしれません。日本のデザインの良さをどのように世界に伝えていけるのか?と考えさせられる一冊です。

<追記>
この本を読んでいた時に、米国の大学で都市計画を教える友人に会いました。彼女はタイの出身、以前は建築家という経歴で、本を見て面白い感想を私に言いました。「マサ、その本の文字は縦書きというのも面白いけど、とても質の良い紙を使っているのね。」今まで私は気づきませんでしたが、日本の単行本の紙質は、とても良いことに気づきました。ここまで、良い必要があるのか分かりませんが、それも日本らしい特徴なのかもしれません。

<追記 January 15th,2012>
友人からのコメント:
ブログで紹介していらした「日本のデザインー美意識が作る未来」読了。面白かったです。~そして納得。
先日、母の形見の着物などを整理して、ふと、日本には着物に見られる独特の色合わせ、季節感、などSimpleで清貧な伝統美があるのに、なぜか街づくりに生かせない~単品で見ると美しいのに集合体になると醜い~改めて思いました。
いつも、成田に降りての帰途、時差ボケの体には「東京」がよけい醜く感じられます。

→なぜ、まちという規模になると、ゴチャゴチャしてしまうのか不思議です。公共と民間・私的住宅スペースの線引きがはっきりしてしまい、どのようにやっても良いという自由があり間過ぎるのかもしれません。いつか日本らしい町並みを目指せるときが来るといいなと思います。その為に、私自身も技術を磨き、切磋琢磨しなければいけません。

関連記事

Advertisement

コメントを残す

Comments links could be nofollow free.