前回のブライアントパークの続きです。この公園の成り立ちを辿ると、少し興味深いものがありますので、簡単にですが、この公園の歴史を紹介させていただきます。
1884年Crystal Palaceの焼失した跡地に出来たReservoir Squareを、ブライアントパークと名づけ公園にしたのが始まりです。そして、この公園に隣接して、1911年にはNew York Public Library(名建築の一つ)が出来ます。1920年代には、地下鉄工事の作業現場になり、その後、1934年に新しく芝生を中心とした公園に再設計されます。
しかし、この上にある絵とは現実は異なり、このブライアントパークは1970年代までに、ドラッグディーラーの売買、売春、ホームレスの場として、衰退の一途を辿り、一般市民が利用出来ない状態になります。この薄汚く、危険な公園を対処する為に、1980年にロックフェラーを中心として、BRIC(The Bryant Park Restoration Corporation – ブライアントパーク再生組織)が作られ、キオスクを導入したり、維持管理をしたりと、少しづつ、市民を公園に取り戻す作業が続けられました。そして、1988年には、都市計画家のWilliam H. Whyteの分析を原案に、ランドスケープアーキテクトのHanna Olinが公園の設計を行うことになりました。このコラボレーションの結果として、現在のBryant Parkに至ります。
この危険な場所になってしまった理由について、White氏によって次のように述べられています。
- 潅木が黙々と生い茂り、人の目が届かない場所が多数あること。
- 鉄格子で囲われ周りから孤立化していること。
- 行き止まりの歩道があること。動線とサインや方向の目印になる道しるべ(Wayfinding)になるものが明らかで無い。つまり歩道を歩いていると、いつの間にか孤立した人目の無い空間に行ってしまうこと。
- 歩道レベルと1.2mの差があり、車椅子の方が利用しにくいこと。
- ドラッグディーラーの場所となっており、この負の要素が、さらなる負の要素を呼ぶこと。
この簡単な記述には、関心する点が多々あります。公園というものは、最初に作って以来、あまり手間隙が掛からない(メンテナンスフリー)に多くの人が思いがちですが、実は、手入れをしてこそ、その公共空間が生かされるものだと考えています。特に、日本においては、大地がとても豊かな為、木々が黙々とすぐ育ってしまいます。そして、人の目の届かない場所をつくり、あまり利用したくないような公園を皆さんが目にすることは多いのではないでしょうか?
また、ホームレスの問題を抱える公園も多数あると思います。このような公園は、ブライアントパークで行ったように再度、設計・計画と維持管理手法について見直す必要があるのでしょう。特に、White氏が述べているように、利用者があまりいない(far from being too crowded)公園は、あまり好ましくない環境(undesirable)の環境をつくってしまい、より多くのホームレスを呼んでしまうのが現状です。
課題になるのが再構築の為の資金なのですが、官民や非営利組織と公共が共同してやるというブライアントパーク型も良い参考になるのではないでしょうか?この公園を訪れれば、自分の家の近くにもこのような公園が欲しいしと思うことは、間違いないでしょう。ニューヨークに来た際はぜひ足を伸ばして訪れてみてください。
<参考資料>
- ランドスケープに関わる方は、ドローイングやスケッチなどのプロセスが載っていますので、以下の本を参考にすると良いです。
The Rebirth of New York City’s Bryant Park (The Land Marks Series , No 04) - このブライアントパークは、ASLA(アメリカ造園学会)で今年、Landmark Awardという大賞を受賞しています。
http://www.asla.org/2010awards/403.html
William Whyte
http://www.pps.org/articles/wwhyte/
<追加>
Bryant Park Shop
http://shop.bryantpark.org/
ブライアントパークのヴィンテージチェアや本が紹介されている。